その後の話

...and they lived happily ever after.

薬の話、なつやすみの話

あまりにも体調が悪く、ブログみたいな分量のまとまった何かを生み出すのが無理な精神状態で、更新が滞っていた。今もよかないが。

 

風邪から1週間、親不知の抜歯を敢行した。それがめちゃめちゃに腫れて、顔左半分マツコデラックスになり、仕事も滞り、ついでに耳も聞こえなくなり、めちゃくちゃである。親不知は1週間後に抜糸に行ったら、思いの外傷口が塞がるのが早すぎて、中に細菌やら膿やら残ってしまってますね、、ということで「ごめんなさい、痛いと思います」と言いながら突如患部をゴリゴリ押し絞るというタイプの医者で完全に涙目だった。山盛りの抗生剤を携えて耳鼻科に行ったらやはり聴力がめちゃめちゃになっており、大量のプレドニンを持たされ帰った来た。耳鳴りうるさくて眠れないのでスティルノックスも再開である。医療の進歩により生かされている。生きてるだけだが。

 

1週間実家に預けていた息子が帰ってきた。家が騒がしい。男児は1秒以上静止できないので、一緒にソファにいると常に座面が揺れる。酔う。私は子育てに向いていない。実家で日記を書いてきた息子、セミセミ、プール、コクワ、セミ、プール、カブトという感じで夏休みしてきていた。よかった。私にできないことは私以外の人にやってもらうという生き方を選ぶ。

 

 

親不知を抜いた話

本当は先週抜歯の予定だったのだが風邪が全然治らず今日にリスケになった。しかし風邪以来持病の低音障害型感音難聴の症状が出ており、今は抜歯後の痛みと耳の不快感以外の感覚が死んでいる。健康に生きたい。

 

健康診断、人間ドックになってから再検査および専門医送りにならなかったことがないのだが、初回で胆嚢線筋症が見つかり翌週には腹腔鏡下で全摘、翌年は視神経乳頭陥凹で緑内障予備軍として半年ごとに経過観察、その次の年は子宮頸がんですぐ手術に(現在は寛解しており経過観察)、その次の年は中性脂肪が200を超えて再検査。今年は何が見つかるんでしょうか。もう手術は嫌だ、、

 

誰を見てもそんなに羨ましいとか思わないタイプだったのだが、30過ぎてからは当たり前に健康を享受して無茶な遊び方や働き方している人のことだけは見ていてつらい気持ちになることが増えた。別に何も、とんでもない遊び方も働き方もしてないが、私は自分の健康の機嫌を伺いながら生きていくほかない。私の内耳を解剖してこの病気の解明の役に立てて欲しい。症状が出たまま死ねたら役に立てそうだけど、この不快な症状が出たまま死ぬのは嫌だな。

 

親不知は事前に告知されていたように砕かれて骨の中から摘出された。ビビリなので鎮静剤をお願いしたのだが、毎度のことながらセデーションから目が覚めてくる感じの多幸感に満ち溢れている感じが好き過ぎて、一生ずっとセデーション化で管理されたいという気持ちを今日も強くした。痛み止めは2-3時間しか効かず、6時間に一度しか飲めない。何故なのか。理不尽な気持ちを抱えながら横になっていたが仕事の電話が入りヨロヨロとひとつ片付けた。健康になりたい。それだけ。

 

 

火星移住計画の話

NHKで火星移住計画の話をやっていた。息子はサイエンス系の番組が好きで、私も付き合いで見る機会が増えた。以前はあまり興味がなくて、この人の親をやるようになってからよく見るようになったジャンルだ。息子は最近本もよく読むようになってきたが、私は物語というか小説大好き少女だったが彼はそういう方向には全然食指が動かないようで、生き物の進化とか特徴とか図鑑とか恐竜とか、とにかくそっち系で、面白いなぁと思う。自分と全然似ていない部分に出会うたびに、神様が与えたこの人の器について考えたりする。神様のこと信じてないけど。人にはランダムに与えられた所与の特性があるというようなこと。

 

そう遠くない将来、地球が抱える様々な問題からの解決策のひとつとして、火星移住計画は現実的な選択肢のひとつであるというような話で、人類が絶滅という運命から逃れるために、人は可能性を模索し続けるのだという結びだった。それを聞いた息子が「ぜつめつしたらこまるから、かあさんもいっしょにかせいにいこうね」と誘ってくれたが、思わず「母さんはいいかなぁ、地球に残るよ」と答えてしまった。言葉足らずだったかなと思い「若い人はどんどん新しい土地に行って、新しいことをやっていったらいいと思うよ」などと付け足しながら、ますますもっていつか見たSFに出てきた老人のようなことを言ってしまった…と思って変に焦ったりしていた(アムロのお母さんじゃんと後から気づく)。当の息子は「そうだよね、おとしよりはどうせすぐしんじゃうもんね!」と割と正しく理解し納得していたようでよかったが(よさとは)。私だって子供の頃は別の星に移住したりすることを夢想したことがあった気がする。なんかでも、もう今の私ならどこか別の星に辿り着く前の宇宙船の気圧差とかで無理そう。内耳が。あと、地球が死ぬならもうそれが運命なんだと思う。私は地球で死にたい。願わくば桜の季節に。日本で。地球が死ぬまで桜咲いてるかな。どうかな。

 

ナウシカで、さだめならね、って大婆様が言うシーン、初めて見た時からずっと忘れられなくて、年齢を重ねるにつれ、思い出す頻度が増え、印象が変わっていった。人生に意味などなく、ほとんどの不幸に理由はない。私たちの日々は神様のサイコロにより、唐突に断ち切られたり、束の間の幸せを抱き締めたり、諦めたり立ち上がったりしながら死んでいく。死んでいくんだけど、たとえば私が火星に行けなくても、行きたいって思えるような心身がエネルギッシュな老人になれなくても、息子が火星に行きたい!って思えて、行けるような人間になってくれたら、今生はもうそれでいい気がする。別に輪廻転生のことも、信じてないけど。

 

 

風邪が治らない話

風邪が治らない。

 

先週の水曜日、急に具合が悪くなり、早退した。帰宅してすぐ熱を測ったら38.7度だった。とりあえず腹に何か入れて水を飲んで寝て起きたら明らかに悪化しており39.4度。そのまま40度を超え、このままここで死ぬのかと思ったものの、なんとか病院についたが、39.8度の体温計を渡されながら「じゃあ順番来たらお呼びしますので座ってお待ちください〜」とにこやかに応対するサイコパス医療事務嬢が最期に会話した人になるのかな、、という感じであった。すみません座るの無理なんですが横になれたりしませんかね、、と絞り出すように申し添えたら困った感じで「うーん、ちょっと聞いてみますね」となり、奥から飛び出してきた看護師に抱えられてとりあえずストレッチャーに寝かされ、ほぼ気絶したままあれやこれや検査され、白血球の数値高いから抗生剤の点滴しとくね、あとあなた脱水してるからね〜みたいな感じでとりあえず死ななかった。扁桃腺炎っぽいな、2,3日続けて点滴に来て、と言われて帰宅。解熱剤飲んだがその後も夜半まで熱は下がらず、夜中になってやっと38度台まで戻ってきて、うつらうつらしながら朝になったら熱は下がってた。熱が下がったってことは扁桃腺炎じゃないっぽいけどねぇと言われ点滴はせず、結局よくわからない。熱こそ下がったもののそこからずっと調子は悪いままで、喉は痛く咳は止まらず耳鳴りはめちゃくちゃだし声は出ない。体はとにかくだるくていつでも横になっていたい。半日高熱に晒されていたことにより何か身体を運用する肝心な機能がバグってしまったに違いない。仕事は2日休んだが、熱はないし、仕事は溜まる一方だし、とりあえず行った。6時間くらいで無理になり帰ってきた。あまりにも耳鳴りがひどいのでソラナックス半分にして飲んで横たわってたら少しましになった。起き上がって夕飯の支度。冷凍シーフードミックスと鶏肉をパスタソースで和えただけの物体と、せめてもう一品と思ったものの脳と手を可能な限り動かさず作ったサバの味噌煮と玉ねぎのスライスを混ぜたサラダ。食べ合わせとは。

 

30を過ぎてから、体調をうまくコントロールすることができない。一旦調子を崩すと地の底にたどり着くまで止まらず、そこから地獄を彷徨い続ける。永遠に良くならないのではないか、このまま死ぬのではないかという感じの日々。平時の最大HPが減り、ステータス毒なのか呪いなのかわかんないけど、とにかく息をして座ってるだけでも減っていく。深酒もしないし夜遊びもしない。日付変わる前に寝るようにしている。強いて言うなら働き過ぎで、それが多分本当に体に良くない。上司の上司は出世をチラつかせてくるが、私の行動原理はそこになく、とにかく今より早く帰れるような生活にしたいですと伝える。もうちょっとステップアップして欲しいんだよね。もっとデリゲーションして、あなたはビッグピクチャーをさ。お忘れかもしれませんがうちのチームは定年間近の省エネおじいちゃんと育休明け時短で余裕ゼロお母さんの布陣です。デリゲートした先から全部転げ落ちるわ。

 

仕事は好き、家のことするより楽しい、でも体がしんどい。いつまでだましだましやってけるのか。ひとつ確かなのは、こういう感じの延長線上で老人はこのまま風邪をこじらせて死んだりするんだなっていうこと。それは結構リアルに分かるようになった。大人になってわかるようになること、たくさんある。

 

 

 

 

プールの話

子供の頃通っていたプールに、息子が体験レッスンを受けにきた。私がこの町に越してきたとき、ここのスポーツジムはまだなくて、新しいだけで何もない町に初めてできた都会的なスポージム、オープン当初の興奮を今でも覚えている。

 

最上階にあったプール、床から天井まで伸びた大きなはめ殺しの窓たち、そこから射し込む太陽の光、キラキラ眩しかった水面の照り返し。初めて体験したジャグジー。世界で一番おしゃれなプールにきてしまった、と思った。小学生の私。

 

25年経って、経営母体も変わり、建屋も傷や汚れが目立つようになり、あんなに広いと思っていた空間も大人の私にとっては少し手狭な感じのする、年季の入ったありふれたスポーツジム。利用者も老人が目立ち、その中で生命力を撒き散らしているこどもたち。代謝だ。町が代謝している。

 

帰りに地元の中華で坦々麺を食べた。私が密かに世界で一番美味しいと思っていた坦々麺だ(本場で四川坦々麺を食べた今でもまだ心のどこかでそう思っている自分がいる)。来るたびに肉味噌の量が少しずつ減っている気がして悲しい。

 

息子の記憶に残る、世界で一番美味しいラーメンはどこのお店のラーメンになるんだろう。南国のあの土曜日いつも行っていたお店の海鮮のやつかな。そう思って聞いてみたら「どこのラーメンもぜんぶおいしい」と言っていたので、このまま、今の君のまま大人になってほしいなぁと思った。

 

 

人生の隙間に落ちていた時の話

詳細を省くと単純に、色んなことが重なって、人生をできなくなった時期がある。

 

人生というのは例えば、ご飯を食べたり寝たり起きたり働いたり、あるいは働かないで娯楽に興じたり、あるいは育児をしたり家事をしたり、そういう生きていく過程でおおよそ人間が普通にやる色々なこと、それが全部できなくなった。呼吸はできていたけど、一番ひどいときは呼吸の仕方がわからなくなった気がしてパニックに陥ったりしていた(息をするのを忘れそうで怖くて眠れなかったのを覚えている)。スマホの通知も食器が当たる音も椅子を引く音も怖く、ただひたすら布団にくるまり、人生の隙間の底から、人生をやっている人たちを、ぼーっと見上げていた。

 

それからずっと、また普通に人生をやれるようになった今も、ふとあの時のことを思い出しながら生きてきたし、これからもそうだろうなと思う。人生の隙間と人生の間には越えられない膜のような崖のような何かがあるのに、そこに落っこちてしまう仕組みは謎で、確かに地続きであったことしか分からず、私が今人生をやっている側にいる偶然と、今たまたまそうでない人を包む膜を微かに認識しながら、遠くで人生を普通にやり続けてきた人たちの、ああでもないこうでもないという話をうまく聞き流すことが出来ず、あなたがいるところとあの人がいるところは繋がってるんですよ、というような気持ちだけを持て余し、何もできずにいる。それから、私が底にいた時に「待つための時間てあるんだよ」と言ってくれた人のことを思い出したりする。