その後の話

...and they lived happily ever after.

私の話

こういうことを言うと精神的に未熟だと言われたり人の親としての覚悟や自覚みたいな話にシームレスに繋げてくる人がいるのでかなり言い難いのだが、普段会社員とか人の親とか誰かの妻として生きていると、なんだかふとその役割に応じた話をする機会しか与えられていないように感じることがある。私は私の話をもっとしたいし私の話を聞いて欲しい。私の話とは、私が読んだ本のこととか、私が聞いて考えたこととか。それを聞いてあなたがどう思うかとか。

 

中学生の頃からずっと話し続けている友人が数人いる。当時は夜中まで巻き物みたいな長さのファックスをやりとりして、昼間も学校で手紙を回し、私の考えてることや彼女たちが考えていることを無限にやりとりしていた。彼女たちの文字の形も全部覚えているし、フォントとして売り出されたら買うかもしれない(意味ないけど)。

 

昔からずっと地に足ついた話が苦手で、例えば今日の夕飯とか明日の持ち物とか。もっと抽象的で意味のない話を無限にしていたい。でも親をやっていると習字道具洗ったかとか明日の朝何食べさせるかとか、そういうものの割合が際限なく増えてきて、そういう話ばかりするのが当たり前になる。今日見たこと、今日読んだ本、読めなかったけど面白そうだなと思った記事の話、日が短くなったなと思ったこと、そういうのが全部虚空に吸い込まれていく。普通の顔で親をやっている人たちはそんな風にならない?それとも私には見えないところでみんなそんな風になっているんだろうか。ライフステージが変わっていくんだから興味関心が移り変わっていくのは自然でしょ。脳内の私が冷めた感じでそういうことを言ってくる。いや、わかりますけどね。わかるんだけど。それでも私は私の話をしたいし私の話を聞いて欲しい。あなたに。そしてどう思うかとか聞かせて欲しい。昔みたいに。だめかな。他にもっと大切なことがある?もっともです。はい。

 

先述した友人のひとりにあるエッセイ本を勧められて、私はそのとき街を歩いていたのだが急遽行き先を本屋に変更してその足で買いに行った。喫茶店に入り隣の二人組の興味深い会話を頑張ってシャットダウンしながら読んだのだが、最初の話でもう胸がいっぱいになってしまった。二十余年の時を超え私の感性を揺さぶってくる友人たちは今も私の話を聞きたがるし、私も彼女たちの話を聞きたい。永遠に話し続けていたい、3人で。保護者会で自己紹介してくださいって言われて自然と子供の紹介をできるようになれなかった私は、これからもきっとずっと私の話をし続ける。でも、私は私の話をする度に、罪悪感を覚える。少しだけ傷いているのを感じる。求められている役割を十分に果たせていないような感じがする。他人の幻想をパッチワークのように継ぎ接ぎした人生を、うまくこなせていると感じる時の充実感と、どこにいてもなんとなく居心地の悪い自分に覚える安堵の間を、行ったり来たりしながら人生をやっていく。