その後の話

...and they lived happily ever after.

早朝の電話

義父が死んだ。

早朝、電話が鳴って、寝ぼけた夫が取り損ねて、すぐに私のスマホが鳴って、取り乱した様子の義母がどもりながら、息子に代わって、と繰り返し言うので何かとてもよくないことが起こったのがわかった。ずっと調子が良くなかった飼い犬がついに、と思ったが、義母と話す夫の動揺の具合と、漏れ聞こえてくる医者の声で、義父に何かあったのだと思った。夫の背中をさすりながら、遠くの医者の穏やかな声を聞く、もう30分心臓マッサージをしていること、もう直ぐ判断が必要になること。私は義母の近くに住んでいるはずの義妹に電話をかけたが、眠っていて着信に気づかないようだった。何度も何度もかけ続ける。

 

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7年いた東南アジアの国から帰ってこようと思ったきっかけのひとつが祖父の死だった。日本にいても死に目に会えるとは限らない。それでもその朝とにかく夫を送り出し数時間後には義母の元に届けられたのはよかったと思う。何千キロも離れたところから飛行機に乗って何時間も何時間も考え続けるよりは。多分。

 

祖父の葬儀の後、帰りの飛行機はオーバーナイト便で、あまりよく眠れなかった。明け方の浅い眠りの中に祖父が出てきて「これ、せっかくきてくれたから!持ってきなさい!」と元気な頃の豊かな声量で現金書留の封筒を押し付けてきた。目が覚めてちょっと笑ってからおいおい泣いてしまった。祖父はなんでも分からないことがあれば私に電話をして聞いてきた。大学生になる頃にはそれを少し鬱陶しく思うようになって、大人になって自分の自我の角が取れた頃には祖父は病床についていた。最後に質問の電話があったのは、NHKのクイズ番組か何かでホールドオン!という掛け声は英語としておかしくないか?どういう意味か?というような内容だったと思う。なんと答えたか覚えていない。

 

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六曜の関係で通夜が2日後になり、おかげで私はある程度仕事を片付けることができ、今息子と2人新幹線の中でこれを書いている。コロナ禍の東京からの移動、悩んだが、突然の喪失に参っている義母にどうしても息子を会わせたかった。息子にもちゃんと死と向き合って欲しかったしお別れをして欲しかった。葬儀は残される人のためにある。

 

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義父と最後に会ったのは年始だ。やっぱり何を話したか覚えていない。生の喪失は唐突で、理不尽さを内包しない死などひとつもないことは頭で分かっていても、なにひとつ腹の中で落ち着けることができず、新幹線に体を運ばれている。明日の私が生きてることだって本来誰にも保証できないのだよな、と思いながら。